石神幻想

石というのは不思議なものだ。我々の文明の初めは石を積むことから始まった。
石は家の基礎。家の壁。いや、もっと古くは石の室自体が家だった。
石を神の化身として信仰の対象とする文化も世界中にある。
ストーンヘンジもモアイも山岳信仰のご神体も、ピラミッドも賽の河原も同じ延長線にある。
石は境界を示すものでもあり、世界(異界)との隔絶の為にも使われる。
石を積む行為は子どもでもできるが、この積み重ねてゆく人の欲望は、巨大な建造物にもなり、巨大なプラントにもなる。
我々の文明の始まりと方向性はこの石を積む欲望によって構築されているのだ。
また、石に対して神聖なものを感じてしまうという人の感覚というのは、ヒトがヒトであることの根源的なものである。
修験道やアニミズムの世界でのご神体となる石は、男根だったり女性器のイメージを持つものが多く、生産と豊穣というヒトが持つ欲望の根源である。
祭るということは畏れの反映でもある。
自然界の源初性のイメージを考え、このシリーズを作成した。

石を積むことを繰り返して、スカイツリーにもなり、原子力プラントにもなる。
石を祭る信仰は、そうした人の欲望充足のための原動力の証左でもある。
今、この現代社会は複雑に進化してきた訳で、あまりにもそうした力によって進められてきたものは、あらゆるところでほころびはじめている。
もういちど、原初の欲望に立ち返り、そうしたものを見つめてみようと思った。

石が石であること、そのイメージを重視したいので、今回のこの作品はモノクロの作品とした。
神聖で猥雑な土着の精神性を表現するためにトーンは、このオーソドックスな調子で仕上げた。

石が石であること。原初の人の欲望。畏れ。石のもつ幻想を感じて頂けると幸いです。


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この作品をPHOTO LOUNGE Vol.3でプレゼンをした。
http://www.phsmt.net/photo_lounge.html
反応はどうだっただろう。このところ(いつも)バタバタで、今回はちゃんと喋れたかどうかよく覚えていない。毎回、主催の山田さんに迷惑をかけてる。水谷さんにもお世話になってばかりだ。いつか、ちゃんと恩返しをしたい。

撮影場所は、多摩川。
プレゼン最中に多摩川という話がでると、やはりつげ義春の「無能の人」がネタになったのだけど、撮影最中にも自分でつげ義春だと思いながら撮りました。
でも、よくよく考えてみると、つげ義春の「無能の人」はある種の芸術論としても読める漫画で、そのうえこの「無能の人」シリーズは、石を売るようになる前は中古カメラを売っていた。
芸術漫画を捨て芸術を生み出すことのできる機能を流通させるようにしようとして失敗するというストーリーがある。評価されはしたがお金にならない芸術ではなく、その芸術の手段の方に希望を求めるてしまうという、写真をやる人が写真そのものではなくカメラの方ばかりに気を取られてしまうような、身の痛い話ではあるのだけど、でも、こと芸術というものそのものよりも、その周辺の機能の方が商売になるというこの世の逆説。
もっといえば、多摩川で拾った石を売ろうというのは、あらゆる芸術作品はと言っていいほど、自分の周囲のどこかしらの何かしらのインスピレーションからくるに過ぎない訳で、全く別の何かから得られるものではない。
近所で撮った写真をお金に換えようとする、写真を売り買いすることも、実はそんなに変わらないのではないか(漫画も同様)という強烈なつげ義春自身のアンチテーゼも含まれてるのではないか、というようには読めないだろうか。

表現の問題には常につきまとう、そうした感覚、つげ義春が手元にある人はもう一度読んでみてはいかがでしょうか? と、余談でした。


石を撮った写真家は以前にも居るようだ。
でも、あの頃はドキュメンタリーであって、今のように民俗学自体が、昔からある自然に対する事物の感覚はかなり薄れてしまっている時代ではなかった。消え去る前のものだったり、まだ記憶が新しい時代。
今、これを撮る意味というのは、もう失われたものを、(こうしたものを普段感じられなくなった社会で)もう一度再現してゆくという意味もあります。

繰り返しになるけれども、もう一度、我々の社会は原初のものごとを考えてみる必要があるのではないか、とも思うのです。

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