311の死者数の2万人の中の1,034人ということは20人に1人は気仙沼で亡くなったことになる。まだ292人は行方知れずという。

Photohokuのプロジェクトで気仙沼に行ってきた。
Photohokuとはなんぞや?という方はこのサイトを見てください。
http://photohoku.org/jp/

昨年5月に泥出しのボランティアで仙台から近い岩沼市、今年の2月にPhotohokuで岩沼と相馬の間の新地町に行った。今度は気仙沼。
三度目だけど、ひとことに被災地と言ってもそれぞれの街でそれぞれの被害の状況が違っていて、どこも酷い被害だけど、今回の気仙沼は今までにない経験だった。

気仙沼について、港に近い市街地に向かったのだけど、港につくと、まだ、そのままだという感じに驚く。たぶん所有者が行方不明で取り壊すことができないか、取り壊す(人的金銭的な)余裕がないのか、いたるところに半壊の建物が残っている。
だいぶ片付いたよと地元の人は言ったけど、前回行った新地町に比べて、被害の爪痕が残ったままだというのが、被害の大きさに比例しているともいえる。新地町も見渡す限りの荒野になった場所があったが、気仙沼は爪痕が残されたままというのが、より一層の混乱を物語っていた。

ホストになってくれた港に近い現地の方の家にお邪魔して話を聞く。
1階は全て水に浸かったとのこと。
大切なものは、2階に上げて助かったけど、とも言うが、まだ片付いてないものが多い。一年経っても、まだ、だ。

車で軽く被災地を一回りする。有名になったタンカー。保存しようという動きがあるし、僕も実際に行ってみるまでは、原爆ドームのように保存してもいいんじゃないかと思ってた。
でも現地の人の話を聞いたり、実際に観光バスが来て、記念写真を撮ったりしてるのを見ると、残さない方がいいと思えた。地元の人は、「我々の知ってる人はみんな死んだよ。残して毎日それを見るのは辛い」という。
その言葉を打ち消すような言葉は思いつかない。

FUJIFILMが行っている写真洗浄プロジェクトの収集されたものを見た。
ものすごい量だ。ものすごい量の写真。
これも言葉が出ない。(この写真洗浄プロジェクトについては別項で書く予定)

桜祭りに行った。
港近くの周囲が破壊された平地に、焼けこげた車が積み重ねられている。被災地ではどこでも車が積まれたままだが、この川の土手の桜祭りの会場のすぐ裏手も車の山。壊れた家の間。

桜はまだだった。
何人かと接触し、何枚かシャッターを切る。ポラロイドフォルム(じゃなくてフジのフィルムだからインスタントフィルムだ)で写真が出来ると、やはりびっくりする。
子どもたちはインスタントフィルムなど見たことはない。初めての写真に喜ぶ。

ひとつの家族の写真を撮った。
最近近くに越してきたという。子どもが二人の夫婦?だ。
初めの一・二枚を越すとだんだん慣れてくる。笑顔がこぼれる。
最後に、連絡先を聞いたとき、名前をどうしようか、と夫婦がちょっと戸惑う。
どうやら、最近一緒に住み始めたカップルということなのだろう。
「適当でいいです」と僕はいう。
四人の家族の写真を最初に、二人並んでいる写真と子どもたちの写真もたくさん入れてアルバムにした。
ありがとうと言われて、さっき露店で買ったばかりの「オランダ焼き」をくれた。
二人で並んだ写真は、いい出来だったと思うけど、結局ちゃんと見れないまま渡してしまった。
貰った「オランダ焼き」は酷い味だったけど、うれしかった。


仮設住宅にも行った。
子どもと遊んだ。子どもは元気だ。でも、行ったこの仮設住宅の人々は、僕らが思っているよりもずっと酷い傷を受けていると感じた。
家族全員失った方や、足を悪くしてしまった人や、表に出せない感情に、僕は打ちのめされるような気がした。語りきれないことが多い。

致命的な失言をした。だいたい「記念写真を撮らせていただいて、お渡しするボランティアです」という感じで声をかけるのだけど、その説明で「家族」や「友人」という言葉を出してしまった。
その老婆は、一瞬こわばった表情で「家族もいない」「友達もいない」といい姿を消した。僕の近くで彼女の友人が居たにもかかわらず。
シャッとシャッターが落ちる感じに似て、ほんの少しのニュアンスでコミュニケーションの回路を断絶するように、表面的な笑顔が剥がれた瞬間だった。
それは深い断崖のように、僕らの前に立ちはだかっているものだ。

それは、笑顔で答えてくれた人たちも、目に見えない部分で同じものを抱えていた。
被災地とそうでない地域という格差。
相当なストレスにさらされた生活環境、外部からやってきた外国人たち。ふらふらとした僕のような風来坊みたいな人に、本質的な部分はわずらわされたくないのだ。
ある種のかたくなさとともに、その大きな傷。
復興という通りのいい言葉では絶対解消できない、根源的な断絶がかいま見れた一瞬だった。

今年は復興の年だと言う。国民がどう思おうと原発だって再稼働に向けて動いてる。
元にもどそう。震災はなかったことにしよう。
もう終わった。

なんてことはない。

僕らが到着した際、仮設住宅の世話人が住宅から出てきませんかと呼びかけてくれたのだけれども、でて来たのは子どもと、老人だけだったのがそれを証明していた。

酷い話をいくつも聞いた。
なんども涙が出そうになった。
傷つけてしまったと思った。
扉を叩いただけで終わってしまったのかもしれないとも思った。

でも、このプロジェクトはやる意味がある。
未来のため、一枚の写真が幸せのきっかけになるかも知れないと、失ってしまった写真には及ばないかもしれないけれども、その一枚が次の幸福の写真を導くために、必要かも知れないのだ。

タフでありたい。今回のPHOTOHOKUは特にそう思える旅だった。

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